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HAMADAのチャレンジスピリット

第01回 
ずば抜けた技術力で礎を築き、
豪胆な気質で魅了する 
― 濱田米次郎 創業物語 ―

2017/10/03

創業者 濱田米次郎

 1874(明治7)年9月1日、現在の北九州市小倉北区生まれ。13歳の時に馬関(現下関市)で鍛冶修行を開始し、18歳で大阪府の鉄工所に勤める。製缶工の技術を磨き、1898(明治31)年「濱田組」を創業。官営八幡製鐵所の建設に携わるなど順調に事業を拡大する。1939(昭和14)年3月、64歳で死去した。

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技術者として高みを目指した青年時代

 「まだ技術力が足りない。最新の、そして最高の技術を身に付けたい」
 濱田米次郎は、馬関(現下関市)で13歳から5年勤めてきた鍛冶職人の道にいったん区切りをつける決意をしていた。「いつかは会社を興す」と野心を抱く米次郎にとって、経済界のリーダー・五代友厚が活躍する大阪は魅力ある土地だった。技術を磨き、見聞を広めることが重要だったのだ。1892(明治25)年、米次郎は一路大阪を目指した。
 大阪のいくつかの鉄工所で腕を磨きながら、米次郎は次第に頭角を現していく。自ら約束した納期を守ることは当たり前。部下を叱咤激励して期限前に請負工事を完成させるマネジメント能力にも優れていた。
 「高品質の製品をつくり上げる」「お客さまのニーズに合わせて絶対に期限を守る」。
 強い信念と自負心を持った米次郎はやがて、若くして腕利きの製缶工として名が知られるようになる。

1907(明治40)年の濱田米次郎社長(前列右端)

独学で最先端の技術を学び請負った仕事に生かす
すべては“技術力”のために

 内弟子を連れて帰郷した米次郎は1898(明治31)年に「濱田組」を創業した。ちょうど最新鋭の技術を駆使した官営八幡製鐵所の建設工事が始まっていて、「自分の経験を生かすならここだ」と考えたからだ。その頃の米次郎がどれほど腕の立つ技術者だったかを物語るエピソードが残っている。
 関東のある製鉄会社から溶鉱炉関係の建設見積依頼があり、現地へ赴いた米次郎はひと目見てあることを指摘した。
 「これは違っている!」
基礎の大きさの違いを、ひと目で見抜いたのだ。高精度な技術を身に付けた腕利きにしかできないことである。
 もちろん、馬関や大阪での経験によるところも大きいが、それだけではない。当時ほとんどが英語やドイツ語で書かれていた建設図面を理解する知識を持っていた。仕事で必要であればなんでも習得する、どん欲さがあった。

当社が建設工事に参加した東洋製鐵(株)第一高炉の全景

念願の官営八幡製鐵所での工事に着手

 濱田組が最初に手掛けたのはやはり、八幡製鐵所での工事だった。大阪朝日商会系列・東京富岡組から、続いて同商会系・広瀬組から請け負い、東田第一・第二高炉の熱風炉ガス管工事を完成させた。総工費は13万5,600円、現在の金額に換算すると2億円以上と推定される巨額の工事である。
 また1903(明治36)年に起こった東田第一高炉の閉塞事故の際は、修復を担当。開削を短期間で成し遂げ、その功績が八幡製鐵所の中村長官や今泉技師から表彰されている。さらに1905(明治38)年のシーメンス炉鉄骨組立工事では、日露戦争のために着手が遅れていた当初の請負会社に代わり、見事に工事を完了させた。”濱田の技術力”がいっそう輝きを増した出来事だった。

八幡東田高炉群(第一高炉建設の一部を請負)

名物“オヤジ”が濱田を支える

 若き日と同じく、米次郎は「期限を守り」「受けた仕事には誠心誠意であたる」ことを信条としていた。ついたあだ名は「オヤジ」「大将」。明治末から大正にかけての八幡製鐵所にはオヤジと呼ばれる3人の名物親方がおり、その中の一人であった。その手腕と明治男らしい気骨にあふれた人柄が信頼を得て、次々と新規案件を受注。事業の基盤を固めていくのだった。