誠心の軌跡|120th anniversary special siteHAMADA

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HAMADAのチャレンジスピリット

第03回 
社屋の歴史 「本社より現場」
社屋の歴史にみる濱田の精神

2018/03/22

新社屋概要

地上6階鉄筋コンクリート建
敷地面積/約4,090㎡
建屋延面積/約3,620㎡

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大衆浴場が事務所に!?戦後30年を支えた旧社屋

 いかにも「銭湯」の雰囲気を醸し出す表玄関、風呂屋を改造した応接室、急すぎる階段……。昭和23年に大改造し、約30年もの間、本社事務所として使われてきた旧社屋は、新築ではありませんでした。終戦前の八幡大空襲で被災した2階建ての大衆浴場(約200平方メートル)を買い取り、改造したのです。
 来客からは「おたくの階段は印象に残りますなぁ……」と冷やかされ、求職者は建物だけを見てきびすを返すこともありました。一方で「建物を見ると堅実な社風が分かる」と評されることも多く、信用を深めたといいます。

発展を支えたのは「現場最優先」の信念

 なぜ30年も使われたのか。それは濱田重工ならではの「現場主義」がありました。「現場第一主義、事務部門は二の次。事務所建設の金があるなら現場につぎ込め。安全で能率の上がる清潔な設備を優先させなければならない」という、当時の社長・濱田満寿次(ますじ)の信念が反映されていたのです。
 ただ、この時期は八幡以外に、光(山口県)、堺(大阪府)と次々に支店を設立し、君津(千葉県)も拡張を続けていました。大分、若松と新設備が導入され、現場環境が充実していくなか、社屋の老朽化が懸念されていました。そこで、創業80周年の記念事業として戸畑区牧山に新社屋を建設すると決定したのです。

地域経済の活性化のために地元企業と協同で施工

 昭和53年5月26日に、待ちに待った新社屋が完成しました。地域社会への貢献を考え、空調設備やエレベーター、鉄骨加工組み立てなど、施工には地元の企業が起用されています。また、紫外線防止ガラス、回転窓を備えた建物は室内に柱が全くなく、自由に間取りが変更できる画期的な設計でした。落成記念パーティーは、北九州市長や八幡製鉄所長など160人もの来賓を招き、盛大に開催。あれから40年経った今も、「誠心(まごころ)」の精神を持つ濱田の社員を見守っています。

写真で振り返る社屋トリビア写真で振り返る社屋トリビア

旧社屋、そして現在の社屋には、知られざるヒミツがたくさんあります。意外な歴史や、あの風景のトリビアを紹介。
濱田重工120年の歴史に思いを馳せてみてください。

1. 八幡大空襲で事務所喪失 社員の自宅を借りて運営

 1945(昭和20)年8月8日、八幡大空襲で、1942(昭和17)年に建設された八幡市大正町(現在の西本町と旧八幡駅の中間)の事務所を焼失しました。そこで、事業継続のために黒崎八千代町にあった事務長・酒井栄作氏の自宅を仮事務所として使用することになりました。

 1945年の八幡大空襲では、221機のB-29が来襲。45万発を超える焼夷弾が使用され、市街地の21%が壊滅。甚大な被害を生みました(写真A)

八幡図書館所蔵/黒崎八千代町の酒井栄作宅

2. 風呂場が応接室に?30年間会社を支えた事務所

1948(昭和23)年

 1948(昭和23)年に八幡市弥生町1丁目(現在の西本町1丁目)に本事務所を設置。1階が風呂場、2階には玉突場があった建物を改装して事務所とし、3階を増築して「会議室・講堂」としました。大衆浴場の名残が残る社屋が完成しました。以降約30年間、この場所で事業を継続し、濱田重工発展に寄与しています。現在、旧本社は解体されましたが、一部は子会社の「株式会社濱田重工エンジニアリング」の事務所として使用されていました。

八幡市弥生町(現在の西本町)にあった旧社屋

3.「濱田組」は永遠に不滅!旧社屋の額を保存

1958(昭和33)年

 本社屋の玄関左側にあるこちらの青銅版。創業当時の社名「濱田組」と刻まれています。これは1958(昭和33)年の創業60周年に際し、全社員が鋳造寄贈したもの。文字は元官営製鉄所第6代長官、元日本製鉄株式会社初代社長の中井励作翁が書いています。この青銅版は御影石にはめ込まれ、今後も永久に保存されます。

玄関左側に掲げられた旧社屋の看板