誠心の軌跡|120th anniversary special siteHAMADA

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初代

初代 濱田 米次郎 代表

1874 – 1939 (代表 1898〜1939)

仕事を終え帰宅後、子どもたちが寝静まったあと、卓袱台(ちゃぶだい)に設計図と厚紙を取りだし、その男は図面より読み取った部材を厚紙に型取りし、折り曲げていた。そうして手製の模型をつくって、完全な仕事を目指して取り組んでいたのが、濱田重工の創業者・濱田米次郎である。
1898(明治31)年、建設中だった官営八幡製鐵所の東田第一高炉関連の工事を請け負って濱田組を興した米次郎代表は、“請け負った仕事は必ず約束期限内に完遂する”という起業家ならではの「気持ちの強さ」と「実行力」を兼ね備えた人物だった。当時の工法は溶接ではなくリベット。穴をあけた部材にリベットを差し込んで専用の工具で“かしめる”ことで反対側の端部を接合させるその工法でうまく製作できるのか、まずは模型で丹念に検証していたのだった。
 
なんでも独学でマスターする姿勢は、13歳で鍛冶屋に徒弟として住み込んだ頃からの職人魂そのもの。和鍛冶の職人にあき足らず、18歳で大阪に出て製缶工(西洋鍛冶)としての腕を磨いた姿勢につながるものだ。
当時の先端技術、製缶の腕を引っ提げての帰郷・創業は、弱冠23歳のこと。住み込みの若い者4~5人を率い、明治・大正・昭和初期頃までは工事を中心とした仕事を担った。
 
米次郎代表は人から信頼を得て、見込まれて有力者や将来を嘱望される多くの方の紹介を受けた。八幡製鐵所の幹部が、あるとき言ったという。「戸畑鋳物*に洋行帰りの方が着任された。会いに行かないか」。さっそく出向き、戸畑鋳物事務所玄関で、「鮎川義介さんという方を訪ねてきた」と告げると、「それは僕だ」と、玄関にいた男。詰襟姿で箒(ほうき)を手にし、見ればまだ若々しい青年だった。わずかな接触であったに違いないが、そこでも信頼を勝ち得たのだろう。明治末には戸畑鋳物(日立金属の前身)内の工事を受注している。この鮎川義介氏とは、のちに日産自動車、日立製作所の創始者となる「重工業王」である。
*現在の濱田重工本社にほど近い戸畑駅南口一帯にあった。のちの日立金属戸畑工場。
 
八幡製鐵所で、その後70年続く鉄鋼生産関連のパイレン作業は、1914(大正2)年に八幡製鐵所から下命を受け、2年後常例作業となり、大正から昭和初期にかけて濱田組を構内請負業者に育てた。

  • 八幡東田高炉群(第一高炉の一部を請負・当時の写真を掲載)

    八幡東田高炉群

  • パイレン現場(当時の写真を掲載)

    パイレン現場

第2代

第2代 濱田 満寿次 社長

1901 – 1992 (社長 1942〜1978)

官営八幡製鐵所の東田第一高炉の歴史的な火入れと同年、1901(明治34)年に生まれたのが、米次郎の次男・濱田満寿次である。1924(大正3)年に明治大学を卒業し、貝島炭鉱に入り、労務主任などを務めた。
初代・濱田米次郎が1939(昭和14)年に病気で逝去後、長男・幸次が事業を継承していたが、1年後、洞岡パイレン作業場で作業中に殉職したため、貝島炭鉱を辞して、急きょ満寿次が濱田組を継ぐことになる。1940(昭和15)年5月のことである。「40歳にして、ペンをハンマーに持ち替え…」。その就任あいさつからも、固い決意が見てとれる。
 
当時、製鉄所では、請負業者は業務に精通し自らも作業ができ、従業員の指揮・管理ができなければならないという定めがあった。
1942(昭和17)年3月、満寿次は突然八幡製鐵所から呼び出しを受ける。出向くとその場で、「濱田満寿次」への名義書き換えが行われ、名実ともに濱田組2代代表に就くことになった。父業を継いでじつに1年10か月、慣れない仕事に取り組み職務に励んだ賜物ではあるが、そこには八幡製鐵所の好意に満ちた配慮があった。さらには、その陰には初代・濱田米次郎代表が誠心誠意尽くした功績も大いにあったものと思われる。
 
第二次世界大戦の戦時下、戦況は次第に逼迫していく。満寿次2代代表は、空襲警報が鳴るなか、避難をしていた作業員を慰問して回った。
八幡大空襲で濱田組は事務所を焼失するなどの痛手を受け、終戦を迎える。満寿次代表は、特に仕事はなくとも毎日製鉄所構内の現場に出かけ、機械・設備の見回りを行った。ひと月ほど経ったある朝、東田の溶鉱炉の煙突から戦後初の煙が上がっているのを見て、胸を突き上げる言い知れぬ感動を覚えたという。
 
濱田組は、戦争末期の1944(昭和19)年7月、東田溶銑鍋煉瓦巻替え作業を請け負う。これが現在に続く、窯炉整備作業の端緒となる。
1950(昭和25)年の八幡製鐵株式会社の発足を受けて、濱田組も法人組織に改組し株式会社濱田組となる。そして昭和30年代以降には、鉱石処理などの原料関係から、製銑・製鋼分野に事業を拡大。また多額の投資をし作業を機械化、光、堺、君津、大分の各製鉄所への進出も果たした。さらに、門司工場(現・産機事業部)をつくり、鉄鋼事業と並ぶエンジニアリング事業という柱を育てた。
 
濱田重工には社是・社訓はない。けれど2代満寿次社長が主唱し続けた「誠心(まごころ)」がある。社長を辞し、会長に就く際にも次のように説いた。「『誠心』は事業をする基本観念であって社是ではありません。それよりいちばん大事なのは社風です。社風は長い年月と社員ひとりひとりの人格が織り成すもので、信頼の表れです」

  • 東田溶銑鍋修理場(昭和19年)

    東田溶銑鍋修理場

  • 君津支店開設に伴い、第一陣出発(昭和43年9月)

    第一陣出発

第3代

第3代 濱田 陽平 社長(現・顧問)

1936 –    (社長 1978〜2005)

120周年を迎えるにあたり、振り返って改めて思いますのは、初代が築いた礎の重さ、そして2代が率いた事業展開の広がりがあって、当社の120年の歴史があるということです。
 
初代社長の祖父・米次郎は、官営八幡製鐵所が建設される際に、まさにその国家プロジェクトに関わるなかで事業を開始し、一代で製鐵所における“3人の親方のひとり”と呼ばれるまでになりました。
その“一から企業を興す”という「気持ちの強さ」や「実行力」は、あとに続く者には到底まねのできることではないと思います。
 
2代目社長・満寿次は、第二次世界大戦に入る直前に、事業を継ぐことになります。工場地区も鉄鋼関連事業中心へと移ります。戦いが激化するなか、八幡の地は空襲を受け、終戦を迎えます。
鉄鋼業が操業を始めるなか、当社も帰国される技術者や軍人など、人材を迎えながら少しずつ動き出します。世情は未だ不安定でしたが、多くの個性豊かな社員が開発に手を染め、できるだけ自社投資で機械化を業界に先駆けて挑み、製鉄所構内作業の合理化をお客さまとともに進めました。そうしたことに、評価をいただけたことからでしょうか。全国各地の製鉄所への進出が果たせたのだと思います。
 
2代目社長は、現場を回ってばかりいた印象がありますが、社内体制の整備にもいち早く取り組んでいます。協力体制と緊張関係のあるよい労使関係も確立しましたし、定年延長も実施し、1963(昭和38)年に社内報「はまゆう」も創刊しました。ZD運動(ZDは無欠点・無欠陥・zero defectの略。1962年アメリカのマーチン社で実施された信頼性向上・原価低減活動に名付けられた名称)も、製鉄所の指導を仰ぎ、熱心に推進しました。グループ活動としてのZD運動の取り組みをまとめた冊子は「金の卵(昭和55年発行)」といいますが、これも2代の命名です。グループ活動を通じて大切に人材を育てようという気持ちが込められた名だと思います。
 
1978(昭和53)年の社長就任にあたって私は、次のようなあいさつをしました。「お客さまへのサービスが受け身の立場ではなく、仕事がやりやすくなるよう先手を打てば、さらにサービス価値が倍増する」「われわれの資質を高めて能動的に、主体性を持ったサービス精神で業務を遂行しょう」。そこには、オイルショックを受けて鉄鋼関連業界の経営環境が厳しくなるなか、「新たな協力会社としてのあり方を自らつくりあげていこう」と呼びかけたい気持ちが強くありました。
私の専務から副社長時代には、各地に支店を展開していく時期と重なります。堺支店に続き、君津支店、さらには大分支店を開設し、多くの方に赴任していただきました。社長就任後も厳しい不況が続くなかで、雇用を確保するために、長い期間多くの方々に社外の会社に応援に行っていただき、臨時の仕事に取り組みました。労働組合は進んで協力をしていただきました。
 
企業としても、激動の時代、社員の方々には新規事業にトライ&エラーで取り組みました。1988(昭和63)年には、当社にとっては全く関係のなかった技術を皆さんが改革され、シリコンウェハーの再生事業を開始し、半導体事業への進出ができたのはその結果といえます。1990(平成2)年には、熊本県大津町に熊本工場を開設し、さらには本格的な初の海外拠点として、1996(平成8)年、マレーシア・ケダ州に「HAMADATEC」を設立しました。
 
技術革新や経済のグローバル化に伴う企業環境の変化とともに、商品の品質からその生産活動は言うにおよばず、企業行動、発言に至るまで広範囲かつ深いものとして、最近は企業の社会的責任が問われるようになっています。日常の業務のあり方や手法手順、人材育成、事業に対する日頃からの危機意識など現場の高い意識をさらに磨いて、あすの企業の存立条件を積み重ねて行ってほしいと思います。120周年に向けて、そしてさらにその先へ前進していく途上、常にチャレンジを続けることが明日の濱田重工の存在、発展につながっていくことを願っています。

  •  
    濱田陽平社長就任のあいさつ(昭和53年9月)

    就任のあいさつ

  • マレーシア現地法人ハマダテックの土地調印式で
    あいさつをする3代目濱田社長(平成8年8月)

    土地調印式

第4代

第4代 松本 豊 社長

1961 –    (社長 2005〜  )

社長就任後の濱田重工について
濱田陽平前社長より、2005(平成17)年9月に社長を引き継ぎました。
社長就任から2008(平成20)年夏までは、鉄鋼・半導体ともに順調な事業環境のもと業績を伸ばしてきましたが、同年9月に発生したリーマンショックを境に、両事業における急激な生産量、受注量の低下に見舞われました。鉄鋼についてはお客さまから、回復に長くはかからないであろうとの指導もあり、配置人員を落とさずに備えることとしました。半導体については受注量の低下に加えて、業界の供給能力過剰による競争激化に伴う極端な価格下落により採算性が大幅に悪化したため、雇用を守ることを前提に社員の他部門配転を進めました。しかし、地元を離れられない社員には希望退職募集も実施せざるを得なかったことは、今でも辛く思っています。
また、当時計画していた新棟建設、設備増強については、リーマンショック前のサブプライムローン問題以降に不穏なものを感じていたため、新棟の建屋建設のみ着手して、設備については仕様検討を進めるが発注は当面の間、凍結する判断をしました。社内には計画を進めないと客先対応に支障をきたすという意見もありましたが、この計画延期は、事業継続ひいては当社存続にとって重大な判断となったと思います。早めの決断、実行が功を奏し、資金面も含めて経営の重大な危機を回避することができました。
ここで改めて実感したことは、好況時でも突然の経済環境変化があるということ。さらには経済環境以外でも想定外は起こり得るということ。特に半導体業界は変化の振れ幅が大きい。当社が長年中核としてきた製鉄所構内作業請負を中心とした鉄鋼事業と異なり、外の世界は受注環境や投資を含めてすべてが自己責任であり、不測の事態にも耐え得る、企業としての体力(耐力)がより一層求められる。これなくして社員の雇用は維持できないということです。
昨年の熊本地震では、当社シリコンウェハー事業部熊本工場が直撃ともいえる被災をしました。お客さまへの供給責任が果たせないとともに、経営への影響は計り知れず、復旧費用、雇用を維持する費用、機会損失による損害など合わせ、大きな打撃を受けました。被災直後に熊本工場を見た時には、あまりの損傷の激しさに言葉を失いましたが、その後の全社一丸となった復旧支援、多くの業者さまのご尽力、お客さまからの長期操業停止についてのご理解、そして何よりシリコンウェハー事業部全員の復旧に対する強い想いにより、1年という時間をかけようやく地震前の生産レベルを取り戻しました。
今回の地震はまさに想定外ながら、このように復旧できたのは、「不測の事態があっても耐えられる経営」を目指すというリーマンショックでの教訓が生かされたのは間違いありません。誰も怪我することなく、雇用の維持もできたことは何よりうれしいことでした。ここから改めて新棟による設備増強を推進したいと考えています。
 
社内課題とそれに対する取り組みについて
安全では、2009(平成21)年11月4日の重大災害を契機として、当社はこれまで以上に安全に舵を切るという宣言と同時に、本社に安全衛生推進部を設置しました。各事業部門長、本社各部長もメンバーとし、毎月全社会議を開催して安全・環境・防災に関する情報共有、議論、決定を通して安全専任者の設置、指差呼称活動徹底、各種パトロール、リスクアセスメント活動・全社大会、標準書の整備、安全レビューの発行などさまざまな活動を実施してきました。昨年は暦年で念願の全社休業災害ゼロを達成しましたが、今年は軽処置災害、重大なヒヤリハット、そして休業災害が発生し、長年培ってきたお客さまとの信頼関係も損なわれかねない状況です。昨年の不祥事やコンプライアンス違反行為を含め、社員全員が真摯に現実を受け止めて、責任を持った行動、すなわち決められたルール、禁制事項を徹底して守ることを誓って取り組みを進めてほしいと思います。そのためにも、日々の仕事の中で上司が「指示・命令」、部下が「報・連・相」を適時適切にできる職場風土の構築が重要です。現在行っている「規律ある風通しのよい職場づくり」を確実にやり遂げることが当社の喫緊の課題であると考えています。
もう一つ重要な課題は、人材の確保、育成です。日本社会は少子高齢化が進み、「ものづくり」企業、特に当社のような高熱重筋などの作業の多い企業には人材の確保が難しくなってきています。また、せっかく入社しても定着しないことも多く、とりわけ作業請負のような労務費ウエイトが極めて高い業種においては、人材の確保ができなければ命取りになりかねない。全社で取り組まねばならない喫緊の課題であると考えています。
 
事業展開について
鉄鋼事業に関してはお客さまのニーズ、生産構造の変化に合わせた対応が必要ですが、人材の確保と合わせ、当社保有技術である鉱石処理や耐火物補修、スラグ処理やコークス炉補修、クレーンメーカーの特徴を生かしたクレーン点検、整備等のさらなる技術・技能向上による拡大を図っていきたい。製鉄所構内の作業は日々の変化は少ないものの、長い間での構造変化や技術進歩により徐々に変化することが多く、日々の作業だけにとらわれることなく、常に新しい視点で作業を見つめ直して改善していくとともに、各所での横展開や新たな発想が必要となります。そのためには、やはり人材の確保、育成が大前提です。
エンジニアリング事業では、従来のクレーン中心から搬送設備中心となってきています。搬送設備では、比較的簡易なものは設計を含め海外調達指向で採算性を確保し、国内では付加価値の高い設備を作るフォーメーションができあがりつつあります。またこれまで実績のなかったヤード機械のリクレーマについては、海外メーカーとの提携により第一号を八幡製鐵所に納入しており、この初号機を確実に立ち上げ、また初期流動に確実に対応し、お客さまの信任を得ることが足元の重要課題です。この成果を生かし、ヤード機械全般の拡販を図っていくとともに技術の一層の蓄積を図りたい。搬送設備については、相当大規模な工事でも確実に受注、実行できる実力が付いてきています。今後もクレーン、搬送設備に限らず、新しい分野、商品への参入を常に視野に入れ、技術進歩していかなくてはなりません。またクレーンの維持、補修のニーズが各方面にあるので、クレーンメーカーとしての技術、知見を生かした業務を産機と各部門が連携してお客さまの期待に応えることが必要だと考えます。
半導体に関しては、ようやく震災被害から復旧しましたので、これまでお待ちいただいたお客さまの信頼回復を第一に、非常に変動の激しい業界であることを念頭において、現在進行中の新棟以降のステップアップ、設備投資は、経済、業界やお客さまの動向を慎重に判断していこうと思います。また技術の進歩に伴い、再生に関しても品質要求が徐々に高くなってきています。こうした流れに乗り遅れないよう、タイムリーな対策を打っていく必要があります。この業界にあっては常に世界ナンバーワンの評価をいただけるよう、日々進歩していきたいと思います。
 
社風<誠心 まごころ>を継承、浸透していく難しさ、大切さについて
<誠心 まごころ>については、以前からさまざまな機会に社員の皆さんにお話しているように、いつの時代にも通じる普遍的な価値観を持つものと考えています。読んで字のごとく「言ったことを成す心」であり、約束を守る、すなわち、法令やルールをはじめとして社会のすべてにあてはまります。また、当社にとって事業の基盤とも位置付けられる「安全」や「コンプライアンス」そのものでもあります。「まごころ」は「真心」であり、「真実の心」「偽りや飾りのない心」。極めてシンプルながら無限に広がりを持つこの言葉は、濱田重工の社風に合っていると思っています。
一方で、シンプルかつ広がりを持つがゆえに、わかりにくいと思う社員がいると思いますが、事あるごとに上司、先輩から伝え聞いて、それをまた次の世代に語り継いでもらいたいと思っています。
社員に求めるのは、決めたことは必ずやり遂げようということで、そのためには基本的な所を大切にしてもらいたい。何をするにも基本の積み重ねがあってこそ次の段階へと進めるというあたりまえのことを念頭に、前に進んでいってほしいと思います。

  • 平成17年10月 社長交代式

    社長交代式

  • 現場パトロールで大勢の社員と対話を重ねる松本社長

    現場パトロール

  • 社内外の関係者で一致団結して、震災から復旧できました。
    安藤・間殿から寄贈していただいた記念碑には、「ありがとう」という意味の「だんだん」という言葉が刻まれています。

    だんだん記念碑だんだん記念碑